ひらめきを感じることが可能である、…年齢?
どうして嬉し泣きができるようになったのかと、この間長時間考えた。
「嬉しくて仕方なくて我慢できなくて泣いてしまう」なんて、そんなことがわたしの身に実際起こるだなんてまったく思っていなかった。
今だって信じられない。
「泣くっていうのはエネルギーが必要であるから、エネルギーにするだけの嬉しさを感じないといけない。そんなことはそうそう起きない。少なくとも子供を産んで育てて価値観的な何かが確変を起こしてフィーバー状態にならないと、嬉し泣きなんて出来そうもない」と信じていただけあって、なんだかとても驚いた。
三流ドラマばりに「あれ、わたし…泣いてる?」と思ったね。
どうしてそうなったのか、考えた。
久しく使ってない脳の一部を使ったような気がする。
学生の頃はどうでもいいことを時間をかけて考えては悶々としていたのに、ここ1年はそんなことないんだもの。
だけど、わかりました。
ひらめいただけですが。
わたしは、わたしに随分と優しくなったようです。
もうこれしかない。
例えば相手に何かをしてもらって、それを「嬉しい」と思ったのならば、「嬉しい」で飲み込んでしまえる自分への優しさを得たのです。
「嬉しい」と感じた時に内から出でる自分を卑下する気持ちも、他人を騙している後ろめたさも、相手への疑いも、全部全部無視して、「どうもありがとう、すごく嬉しい」と言って良いと。
それを感激まで昇華させて、涙として体現させても良いと。
全て、自分に向いた優しさが後押しするのです。
ああ、恐ろしい。
たまに「世の中の人々はみんな優しいなあ」と思うことも恐ろしい。
やっぱりそれは自分への優しさじゃなくて、鈍ってきているだけかもしれない。
好意を好意と受け取るのが1番だと、この短い24年間で悟っただけかもしれない。
そう悟ってしまうくらい、他人との接触は神経をすり減らしていただけかもしれない。
別に「騙されてもいいや」という気持ちでもなく、
「ありがとう」と笑いかけて、実は相手に「何もわかっていない馬鹿だ」と思われてしまっても、そんな思惑にはどうせ気付けないんだから鈍感でも構わないと思っているわけでもない。
今まで私を守ってきた重たい何かがごっそりなくなってしまった感じだ。
その代わり、自分への優しさが、というよりなんだろう、ぬるい液体が隙間を埋めているというか。
それでいて、「嬉しい」は「嬉しい」で受け止めてもダメージは変わらないというか。
むしろ精神面を考えると大分楽になったというか。
くさりかたびらではなくて、みずのはごろもというか。
どちらにせよ、嬉しいと感じることが出来て、「わたしは嬉しいです!」と伝えることができるようになったがために、周りの人はとても良くしてくれるし、恋人は「キミが嬉しいとオレも嬉しいよ」と脳髄腐ってるんじゃなかろうか台詞まで吐いてくれるのだから、悪いことじゃないんだ。
「嬉しい」を甘受しても誰にも怒られないのだ。
…別に、もうちょっと早くそうなっていれば、わたしはあの人と別れることもなかったろうになんて、思ってませんよ。
全然。
…ちょ、ちょっとは思ったけどね。
だけど、未練なんてのはないのよ。
それとこれとは違うのよ。
あるのは、己の未熟さ発、己の弱さ行きの後悔のみなのよ。
「嬉しくて仕方なくて我慢できなくて泣いてしまう」なんて、そんなことがわたしの身に実際起こるだなんてまったく思っていなかった。
今だって信じられない。
「泣くっていうのはエネルギーが必要であるから、エネルギーにするだけの嬉しさを感じないといけない。そんなことはそうそう起きない。少なくとも子供を産んで育てて価値観的な何かが確変を起こしてフィーバー状態にならないと、嬉し泣きなんて出来そうもない」と信じていただけあって、なんだかとても驚いた。
三流ドラマばりに「あれ、わたし…泣いてる?」と思ったね。
どうしてそうなったのか、考えた。
久しく使ってない脳の一部を使ったような気がする。
学生の頃はどうでもいいことを時間をかけて考えては悶々としていたのに、ここ1年はそんなことないんだもの。
だけど、わかりました。
ひらめいただけですが。
わたしは、わたしに随分と優しくなったようです。
もうこれしかない。
例えば相手に何かをしてもらって、それを「嬉しい」と思ったのならば、「嬉しい」で飲み込んでしまえる自分への優しさを得たのです。
「嬉しい」と感じた時に内から出でる自分を卑下する気持ちも、他人を騙している後ろめたさも、相手への疑いも、全部全部無視して、「どうもありがとう、すごく嬉しい」と言って良いと。
それを感激まで昇華させて、涙として体現させても良いと。
全て、自分に向いた優しさが後押しするのです。
ああ、恐ろしい。
たまに「世の中の人々はみんな優しいなあ」と思うことも恐ろしい。
やっぱりそれは自分への優しさじゃなくて、鈍ってきているだけかもしれない。
好意を好意と受け取るのが1番だと、この短い24年間で悟っただけかもしれない。
そう悟ってしまうくらい、他人との接触は神経をすり減らしていただけかもしれない。
別に「騙されてもいいや」という気持ちでもなく、
「ありがとう」と笑いかけて、実は相手に「何もわかっていない馬鹿だ」と思われてしまっても、そんな思惑にはどうせ気付けないんだから鈍感でも構わないと思っているわけでもない。
今まで私を守ってきた重たい何かがごっそりなくなってしまった感じだ。
その代わり、自分への優しさが、というよりなんだろう、ぬるい液体が隙間を埋めているというか。
それでいて、「嬉しい」は「嬉しい」で受け止めてもダメージは変わらないというか。
むしろ精神面を考えると大分楽になったというか。
くさりかたびらではなくて、みずのはごろもというか。
どちらにせよ、嬉しいと感じることが出来て、「わたしは嬉しいです!」と伝えることができるようになったがために、周りの人はとても良くしてくれるし、恋人は「キミが嬉しいとオレも嬉しいよ」と脳髄腐ってるんじゃなかろうか台詞まで吐いてくれるのだから、悪いことじゃないんだ。
「嬉しい」を甘受しても誰にも怒られないのだ。
…別に、もうちょっと早くそうなっていれば、わたしはあの人と別れることもなかったろうになんて、思ってませんよ。
全然。
…ちょ、ちょっとは思ったけどね。
だけど、未練なんてのはないのよ。
それとこれとは違うのよ。
あるのは、己の未熟さ発、己の弱さ行きの後悔のみなのよ。