わたしはなんだったのだろう
最近よく思う。
「わたしは何だったのだろう」
頑なに「嘘」が1番幸せだと思っていたわたしは、なんだったんだろう。
嘘をつくことで安心した。
それによって誰かが傷つくかもしれないけれど、わたしが見る限り最小限の被害しか出さない(つもりだ)から、そういう…良い嘘をついているから大丈夫だと思っていた。
嘘をつかれることで安心した。
嘘をついて傷付けないようにしよう、という思惑が相手にあるのなら、わたしを傷付けまいとする気持ちがあるんだと思っていた。
どの根拠も、間違っていないと思う。
他の誰かから見たら大間違いかとも思うけれど、わたしは間違っていないと思っている。
実際そう思って今までやってこれたから、今までは間違っていなかった。
これからもその根拠は覆されるものではないと思う。
けれど、嘘ではない、…なんというか。
極めて本当に近い気持ちを言うことも、幸せだと気付いた。
発信することも、受信することも幸せだと気付いた。
だって、わたしの「本当」なんて、誰に伝えても喜ばれるものだとは思わなかった。
適当に当たり障りなく…それだけでは「嘘」が嘘に聞こえてしまうので、「発信してもおかしくない本当」をなんとなく織り交ぜながら話すことが、処世術だから。
わたしだけでなく、きっと世の中の9割はそう思っているに違いないんだもの。
だったら、「本当」なんてまったくもって必要ないじゃない。
純度99%を発信することに何の意味があるのか。
そもそも、受信側は純度99%を見極めてくれるのだろうか。
その保障がないと、わたしばっかりが「本当」をさらけ出すリスクが高くって仕方ないじゃない。
見返りのないことなんて、大嫌いだもの。
それなのに、知ってしまったから仕方ない。
知り合ってしまったから仕方ない。
今までの自分の常識をぐらつかせる人に出会って、なんかもうどうしたらいいのかわからないけれど得したような、これからの人生が非常に面倒で投げ打ってしまいそうな、そんな予感もあったりなかったりするけれど、
概ね老いてゆくだけどの外見と中身だから、抵抗することもないと思う。
さて、主にどの場面で「本当」の素晴らしさを感じるのかと言えば、
男女間の、俗に言われる夜の営みの最中。
随分と大人になってしまった自分に恐怖。ですわ。
「わたしは何だったのだろう」
頑なに「嘘」が1番幸せだと思っていたわたしは、なんだったんだろう。
嘘をつくことで安心した。
それによって誰かが傷つくかもしれないけれど、わたしが見る限り最小限の被害しか出さない(つもりだ)から、そういう…良い嘘をついているから大丈夫だと思っていた。
嘘をつかれることで安心した。
嘘をついて傷付けないようにしよう、という思惑が相手にあるのなら、わたしを傷付けまいとする気持ちがあるんだと思っていた。
どの根拠も、間違っていないと思う。
他の誰かから見たら大間違いかとも思うけれど、わたしは間違っていないと思っている。
実際そう思って今までやってこれたから、今までは間違っていなかった。
これからもその根拠は覆されるものではないと思う。
けれど、嘘ではない、…なんというか。
極めて本当に近い気持ちを言うことも、幸せだと気付いた。
発信することも、受信することも幸せだと気付いた。
だって、わたしの「本当」なんて、誰に伝えても喜ばれるものだとは思わなかった。
適当に当たり障りなく…それだけでは「嘘」が嘘に聞こえてしまうので、「発信してもおかしくない本当」をなんとなく織り交ぜながら話すことが、処世術だから。
わたしだけでなく、きっと世の中の9割はそう思っているに違いないんだもの。
だったら、「本当」なんてまったくもって必要ないじゃない。
純度99%を発信することに何の意味があるのか。
そもそも、受信側は純度99%を見極めてくれるのだろうか。
その保障がないと、わたしばっかりが「本当」をさらけ出すリスクが高くって仕方ないじゃない。
見返りのないことなんて、大嫌いだもの。
それなのに、知ってしまったから仕方ない。
知り合ってしまったから仕方ない。
今までの自分の常識をぐらつかせる人に出会って、なんかもうどうしたらいいのかわからないけれど得したような、これからの人生が非常に面倒で投げ打ってしまいそうな、そんな予感もあったりなかったりするけれど、
概ね老いてゆくだけどの外見と中身だから、抵抗することもないと思う。
さて、主にどの場面で「本当」の素晴らしさを感じるのかと言えば、
男女間の、俗に言われる夜の営みの最中。
随分と大人になってしまった自分に恐怖。ですわ。